地域おこしタイトル

 私は漱石のファンでも研究者でもありませんが、漱石晩年の自伝的作品『硝子戸の中』はとても好きです。この作品は大正4年1月13日から2月23日まで、東京朝日と大阪朝日新聞に同時に発表され、その年の4月に単行本として出版されました。前年には第一次世界大戦が勃発し、9月2日、日本はドイツに宣戦布告して山東半島のドイツ領青島(チンタオ)に上陸しました。当時、どの新聞も戦意高揚を煽る記事でいっぱいでした。
 そんな中、連載から9日目の『硝子戸の中』は「私が高等学校にいた頃、比較的親しく交際(つきあ)った友達のなかにOという人がいた」という漱石の回想で始まるのです。東北盛岡出身のOは、いかにもゆったりとして激することない人でした。彼は理科志望でしたが、哲学が好きでした。Oが本郷駒込で間借り生活をしていた頃は、よく干鮭(からざけ)を焼き、餅菓子がなければ煮豆を買って漱石にご馳走してくれたのです。
 Oが大学卒業後、地方の中学校へ赴任したことや、その何年か後支那の学校に雇われ3年の任期を終えて帰国したこと、中学校の校長になって秋田から横手に配転され、今は樺太の校長をしていることなど、漱石は知っていました。ところがその彼が、突然、漱石を訪ねたのです。「Oは昔、林檎のような赤い頬と人一倍大きな眼と、女のようなふっくらとした顔をしていた。しかし、今はどこか違っている」と漱石は感じる。
 「人間も樺太まで行くと、もう行き先はないな」と漱石。「まあ、そんなものだ」とO。その晩、二人は帝劇に行った。その夜の帰り、電車の中で二人は別れた。「彼はまた遠い日本の領地の北の端(はずれ)に行ってしまった。私は彼を思い出すたびに、達人(たつじん)という名を考える。すると其名がとくに彼のために天から与えられたような心持になる。そうして其達人が雪と氷に鎖ざされた北の果てに、まだ中学校校長をしているのだなと思う」
 『硝子戸の中』を出版した翌年の大正5年12月9日、漱石は胃潰瘍の悪化により亡くなりました。漱石は慶応3年に生まれ、明治元年に満1歳なので、明治と漱石の年は一致するのです。たまたま、私(林)は、2004年、天皇制下における明治の精神をテーマに『漱石の時代』という本を出版しましたが、その時、『硝子戸の中』のOという人物が、秋田中学と横手中学の校長をしたことを、岩波書店から刊行中の『漱石全集』で知ることができました。
 そのことを、わが同期生にして元横手高校教師の戸部尚武氏に確認したところ間違いないことがわかりました。明治28年英語教師として松山中学に赴任した漱石は、後、『坊ちゃん』を発表するのですが、太田達人が横手中学の校長として赴任した当時、横手中学はどんな状態だったのか想像するのも、学校創立110年という歳月を記念する何かのお役に立つのではと私は思うのです。なお、参考文献を次に記します。文献は『岩波版 漱石全集』(第12巻、別巻)です。別巻には、太田達人の「予備門時代の漱石」が収録されています。
(後記)「太田達人」のネット検索で、@「県立秋田高校第16代校長(明治40.3.25〜43.9.12)、前職北京大学、後職横手中学」、A川越良明著『母のくけ台』(無明舎、2006年)などわかりました。すると太田校長の横手中学転任は、明治43年9月以降です。

創立110周年記念誌「春秋110わが美入野」より