横手高校の創立110周年記念式典が10月16日、催された。旧制横手中学校は1899(明治32)年4月開校である。以来110年の歳月が流れ、学校と同窓会は記念誌「春秋110わが美入野」を発刊した。同窓生の寄稿にはそれぞれの時代の思いが語られており、読みごたえがあった。
 その中の一つに、横手中学校第5代校長の太田達人(たつと)と文豪夏目漱石との交流に触れたものがある。樺太(現サハリン)の大泊中学校長に赴任していた太田達人が1914(大正3)年、東京の漱石宅を訪ねた折のことを回想した漱石の小品「硝子戸の中」の紹介だ。この交友は巷間(こうかん)でもいろんな形で紹介されているが、語られていない部分がある。横手から遠く樺太に渡った太田校長の心情と転任の背景である。

 太田達人は1866(慶応2)年、盛岡市郊外の岩手郡東中野村(現盛岡市)生まれ。父は南部藩の武士。新設の盛岡中学(現盛岡一高)に入るが、新しい時代の波に目覚めて中退し上京、青山英和学校(現青山学院大学)に入学。さらに同郷人との交友の中で大学進学を志し、駿河台の大学予備校成立学舎に転じた。後の漱石・夏目金之助とはそこで同級となり、大学予備門(後の旧制一高)、東京帝国大学と同学する。
 同大学理科大学物理学科を首席で卒業したのは1893(明治26)年。大学に残って教授の道を歩むことができたが、学資返済や弟妹の学資のために職に就かざるを得なかった。
 中等教員の道を歩み始めた達人の最初の赴任校は石川県尋常中学校だった。赴任には漱石との交友関係が背景にある。つまり、狩野亨吉の存在だ。狩野は大館出身の教育者、思想家で、府立一中、東京帝大と進み、漱石の先輩として同学であった。漱石や達人は1890(明治23)年ごろから集まるようになった狩野中心の「紀元会」のメンバー。その狩野は1892(明治25)年、金沢の第四高等学校に教頭代理として赴任。達人はその縁で卒業と同時に金沢に赴任することになる。
 以後、大阪府第一尋常中学校長、教員養成を目的とする「北京京師大学堂師範館」(後の北京大学)の「副教習」に任命される。その後、任期を終えて帰国し、秋田中学校長、横手中学校長を経て樺太の大泊中学校長に転じ、樺太生活10年を経た後、健康を害して退官、盛岡に帰る。定年前の57歳であった。こうした流れの中で語られることのなかったのが達人の樺太時代である。

 樺太は日露戦争終結後の1905(明治38)年、ポーツマス条約によって北緯50度以南が日本領土となった新天地。政府と軍部による急速な開発が推進された。大泊に中学校が開校したのは1912(明治45)年5月1日、校名は樺太庁中学校である。
「北海道教育史地方編樺太教育史」(明治32年北海道教育研究所編)によると、「開校当時の校舎は元樺太守備隊大泊分遣隊の兵舎を使用、初代校長は秋田県立横手中学校長太田達人で明治45年5月1日任命され、大正12年2月免官まで10年間当校の創業と進軍の基礎を確立した」とある。初代校長としての重責がうかがえる。当時の樺太庁職員録によれば、開校時、職員は校長以下8人、新入生は107人で2学級編成。入学式当日の写真には兵舎の門の国旗の交錯の上に「無疆(むきょう)」の大揮毫(きごう)が掲げられている。
 入学式に間に合わなかった達人は、赴任後の5月25日に開校式を行う。当時の樺太日日新聞は、樺太庁長官をはじめ、多くの高官や軍人が列席、盛大に挙行されたと記し、達人の、樺太開発の機運を盛り上げながら、これから広く知識を吸収してゆくための国語、言語の重視、そして徳育、特に宗教的な情操の育成の必要性を述べた校長としての式辞を「演説」として掲載した。

 依願退職までの約10年間、新設中学校の国策がらみのバックアップ体制の中で、精力的に校長の職務を全うしたものと思われるが、心中はいかばかりであったかは知る由もない。
 これについては太田校長に近い身内である牧師の太田愛人(あいと)の著書「辺境に説く―牧師生活五十年」(平成12年岩手放送刊)に一端が語られている。それによると達人は少年時代、キリスト教の洗礼を受けている。したがって栄誉栄達には淡白であった。終始地方回りの理由を聞かれても、自分には若い日本の理科教育は中等学校時代から広く育成すべきだという信念があり、樺太赴任にもそういう思いがあったと語ったという。漱石をして本名「たつと」を「たつじん」といわしめ、さらに大人と思わしめた所以(ゆえん)をここにみる思いがする。

 太田達人の経歴で気になることがある。秋田中学から横手中学、さらに樺太への転任だ。当時の中等教員異動は全国一円だが、樺太在住10年を最後に退官というのは気になる流れ。発端は秋田中学校長時代の遭難事故に由来するものとされている。
 1910(明治43)年6月、日露戦争の日本海海戦において東郷平八郎指揮の帝国連合艦隊の旗艦「三笠」が秋田沖に停泊。秋田中学では全校生徒が表敬と見学を兼ねて「三笠」の訪問を計画した。しかし当日は波が高く、校長の達人は大事をとって中止する。ところが、血気盛んなボート部員が許可なくボートを出した。大波を被って転覆、7人が救助され、3人が行方不明となった。遺体が発見されたのは数日後の6月7日。秋田中学のボート部は当時、秋田港から函館まで遠征し断念、青森港に上陸するという冒険をしたりしていて意気軒昂(けんこう)であった。
 不幸にして起きたこの遭難事故とその後の捜索に関し、秋田魁新報は6月9日付から遺体発見後の18日まで詳細に報道した。それによると、太田校長以下生徒を含めた学校側はもちろん、森正隆知事の采配(さいはい)で連日、県庁、警察、地元住民を含めた大掛かりな捜索活動を展開。遭難報道最後の紙面には学校側の責任を問う署名記事を掲載した。
 
 そうこうしているうち、太田校長は年度途中の転任を余儀なくされる。転任先は横手中学で発令日は9月13日。もちろん中等学校の校長は勅任官なので辞令交付は内閣名である。だが、その具申権は県にあった。それには当然時の知事がかかわっている。太田校長は横手中学着任から数日後、遭難者の追悼式に出席し、秋田中学校校友会元会長名で痛恨の「追悼之祭文」を寄せている。心中を察するに余りあるものがある。
 もう一つ、驚くことがある。森知事と太田校長は東京帝大の同期生なのである。「東京帝国大学一覧」によれば森知事は法律科で太田校長は物理科。同期の夏目漱石は英文科だ。
 横手中在任中の太田校長の業績は「横手高校百年史」によると、校舎火災から再建が完了した段階で中学校生徒学力比較考査などを実施、学力向上や教員の資質の充実に取り組んだと記載されている。だが在任1年半にして1912(明治45)年5月1日、樺太庁大泊中学校に赴任する。47歳だった。
 これを聞いた漱石は激怒、太田校長の処遇に関し友人龍居頼三に手紙をあてた。(岩波書店刊「図書」昭和52年2月号)。龍居は当時隆盛に向かいつつあった南満州鉄道の理事。
 「拝啓本日狩野亨吉君をたづね例の人物につき相談致候処別にこれという程の人物も物色し得ず弱りはて候ふと太田達人のことを思ひ出し候あれなら君とも熟知の間柄故双方にて気がねなく至極便利と存じ候が如何にや彼は大器故秋田の馬鹿知事森正隆よりグズと思はれ今樺太に赴任致居候狩野も太田には賛成致候出来得べくんばあの下に腕のききたる人一人をつけたら妙ならんと存候(以下略)」
 樺太に赴任した太田校長を、満鉄のある有力なポストに推薦しようとする漱石の依頼文である。すでに狩野亨吉にも事前に相談して賛意を得た上での推薦である。当時満鉄には漱石や太田校長の学友中村是公が副社長を務めていた。中村も承知し、早速漱石は太田校長に伝えたが、本人は樺太で生きると明言するのである。生半可(なまはんか)な気持ちで赴任したのではないことが分かる。
 森知事はどんな人物なのか。秋田県知事としての在職は1908(明治41)年10月―1912(明治45)年3月。米沢生まれで、大学卒業後に各県の部長などを経て茨城や秋田、宮城などの知事を歴任。その後内務省入りし、最終的には貴族院議員を拝命した。はえぬきの立身出世型で、各県での剛腕ぶりが伝えられる。

 「秋田県政史」上巻を見ると、歴代の知事と比べて多くの業績を残している。また、県庁や県会に檄(げき)を発し、かなりの摩擦があったと記されている。「喧嘩(けんか)屋の森梵天」「秋田のアラゲ男」などの評があり、宮城県の史料では「鬼の知事」の異名や「森の暴政」「政友会知事」などの言葉が散見する。信賞必罰は役所の基本だが、必ずしも公平とはいえなかったようだ。
 キリスト教を内包する太田達人。「則天去私」のもとに煩わしい世事を超越する漱石。森知事の現実的な激情型の行動とは相いれるものではないことは明白である。ただ、太田達人自身に森知事との確執感があったかどうかは知る由もない。北限の地樺太の創世期に万力を尽くした達人の信念と気迫には頭の下がる思いがする。

(横手市史編さん委員)