渡辺和男

 

 

 

江戸や明治の一時期に日本一の生産量を誇った秋田県湯沢市の院内銀山。その歴史の研究が私のライフワークだ。世界遺産登録もされた島根県の石見銀山などと比べると、史跡としての整備は遅れているが、地元の人間として深い愛着がある。小学校教員の仕事を定年退職してから20年、調査に没頭してきた。

通説

私は昭和3年(1928年)生まれ。生家は銀山から2キロほどのところにあり、幼いときから銀山のことを色々と見聞きして育った。閉山は昭和29年。それまでは銀が掘られていたし、神社で毎年盛大な祭りもあった。普段でも銀山には何か活気があったことを覚えている。暮らしぶりにも彼我の差があり、山内の小学校の生徒が洋服を着ていたのに対し、私たち地元の子供はモンペ姿という具合だ。末期でも、かつての繁栄の名残が感じられた。
そんな思い出もあり、教壇に立ちながら銀山に関する資料を少しずつ集めていた。本格的に調べだしたのは時間に余裕ができてから。平成元年(1989年)、不思議な縁で母校の院内小学校で校長を務めたのを最後に退職。すぐさま研究にのめりこむことになった。
従来伝えられてきた銀山史を改めて検討するところから始めた。それまで雄勝町(現湯沢市)の歴史の本や院内銀山史跡保存顕彰会の会誌が数少ない資料としてあったが、正確性に欠けるきらいがあった。お国自慢の発想が抜けきらなかったためだろう。
これまで数十項目の誤りを発見してきた。例えば町史には天保13年(1842年)の人口が1万5千人とあるが、「小貫家文書」という資料によれば、その3年前が3千人あまり。天保9年をピークに産銀高が減少に転じていた時期にはありえない増え方だ。当時、銀山で働いた医師、門屋養安の日記にも人口急増の話は見あたらない。
もう一つ例を挙げる。顕彰会誌では天保10年によろけ(塵肺)の治療所を開設し、養安に加えて医師3人を招いたという趣旨の記述がある。しかし当の養安の日記の内容は正反対。鉱山当局が経費節減のため追放したなかに3人が含まれていたのだ。1人ではとても仕事が務まらない養安は3人を残すよう願い出たものの、かなわなかったのが事実のようだ。
修正作業の大きな助けとなったのは、先駆的な研究者である高知大学の荻慎一郎教授、民族芸術研究所の茶谷十六氏との出会いだ。平成3年、院内を訪れた両氏に銀山を案内して回った。以来、論文や研究誌などをこまめにおくっていただけるようになった。養安日記など様々な史料も手にすることができた。2人と巡り合っていなければ、私の銀山研究は成り立たなかったと感謝している。


完全に自前のオリジナルの成果と言えるのは墓碑調査だ。退職後の暇つぶしに最適で、豪雨や雪でもない限り毎日出かけて銀山一帯の墓地を歩き回った。4〜5年かけて約700基。まとまってある共葬墓地で最初に見たのは350基。さらに草や土に埋もれていたものを掘り起こしたのが150基。ほかに、あちこちで200基ほどを見つけた。
銀山史に名を残す人の墓もある。例えば最盛期だった天保年間の大功労者、山本権六。こうした功労者の中では金銀吹分師・中川左兵衛の墓がまだ見つかっていない。これから何としても突き止めたいと思っている。
調査の過程で銀山ゆかりの人たちと知り合えたことも思い出深い。平成5年、茨城県日立市に住む木下勝弘さんという方が、先祖の門屋盛信の墓を探して院内に来たが、見つけられずに帰った。それを後から聞いた私が手紙を書いた。盛信は養安の孫で、墓の所在も知っていたからだ。


木下さんのことを茶谷氏に教えると、日立に飛んでいった。そこから芋づる式に門屋一族の住所が分かり、翌平成6年には総勢30人近くの銀山訪問が実現。私が一帯を案内した。うち何人かは今でも毎年、訪ねてくるほどだ。
神戸松陰女子学院大学の教授だった米国人のリチャード・ジャンボール氏、独マールブルク大学のエーリッヒ・パウアー教授ら外国人研究者も院内を訪ねてきた。古くはイタリアで17世紀初頭につくられた日本地図に院内銀山が載っている。キリシタン宣教師の報告などで知られたのだろう。
この20年間、様々な人に出会い、支えられてきた。今年は銀山についての初の通史となる「院内銀山史」(無明舎出版)という本を刊行できた。しかし終わりはない。これからも実証性を第一に研究を続けていきたい。