美入野ノート

【第1回】母校ロマン―森田溥氏

母校の資料をあさっていると、面白い記録に出合います。
たまたま学校新聞「あおくも」をめくっていたら、「初の外人教師チャップリンの逸話」という記事が掲載されていました。昭和43年の創立70周年記念特集号です。外人教師のスペルは、Charles・C・Champlinだからチャンプリンです。在任は短期間で、明治35年5月から翌年9月まででした。面白い記事です。一部を抜粋します。

Charles C. Champlinの肖像画
横手高校所蔵

チャンプリン先生は、着任後まもなく本館の前庭を耕し、故国から持って来たトマトを作ったが、当時横手地方にトマトが移入されていなかったので、生徒達には赤く熟したトマトが珍しかった。
チャンプリン先生がうまそうにトマトを食べるのを見て、ある生徒がこれをまねたが、すっぱい味とあの独特のにおいが気になり、とても食べられなかった。そのためせっかく熟してくると、生徒達がいつのまにかもぎとって捨てるので、いつになっても熟さなくなったトマトを見てチャンプリン先生は首をひねった。
そのうち生徒達が熟したトマトを捨てているのを知り、捨てようとする生徒を追いかける姿がよく見られた。このいたずらはしばらく続いたが、大きな体を折るようにして生徒を追いかけるチャンプリン先生の姿は、とてもこっけいだったとか。

さらに、寄宿舎の近くの井戸を見たチャンプリン先生が、生徒に「WC?」と聞くと「Yes!」と答えたので小用をたした話や、運動会の走で長身のチャンプリン先生に勝てるかと生徒にけしかけられた背の低い桜田先生が、発奮して勝ったが次の年はチャンプリン先生が勝った話などが紹介されています。
往時の生徒の明るい悪童ぶりが躍如としており、のどかな学園生活がうかがえます。厳しいところは厳しかったでしょうが、当時の学校には、珍事が起きてもお互いにゆるし合う何かロマンのようなものが底流にあったように思います。

チャンプリンが暮らした日新館

ごく一般の生徒であった私にとっての横手高校の最高の郷愁は、何といっても校舎を囲む広大な自然の散策です。ただ単に校舎とグランドだけの学校にはない深い精神風土が形成される環境だからです。加えて、今とは比較にならない多くの個性豊な先生方との出合いがありました。帰途に立ち寄った金喜書店での立ち読み、朝夕の駅の本線上下と横黒線や横荘っこに集まる男女学生のごった返しなども忘れがたい思い出です。汽車通だったので庭球部は早々に退部し、本読みと駄文を弄すること位しかない高校生活でしたが貴重な母校です。
そういう思いの中でチャンプリンの記事を読み、ふとよみがえる記憶がありました。明治の草創期の学校に、終戦直後の学校を重ねることは全く無謀なことですが。
私の苦手教科は理数です。数学はからきし駄目でした。理科は1年で生物、2年で化学、3年で物理を選択したように記憶しています。
物理の授業は、講堂裏の階段教室でした。狭くて暗い廊下の講堂の真裏に教室の入口がありました。明治40年建築の校舎はガタピシで、階段教室は特に古かったように思います。梅雨の頃になると、昼でも被いかぶさる木々の葉で薄暗さが増します。
誰かが、すべりの悪い引き戸を締めて突っかい棒をかいました。まもなく先生が来ました。引き戸をガタピシやっていましたが開きません。そのうち、生徒が何かしたなと感じたのでしょう。「コラ!開けろ!開けろ」と大きな声で怒鳴り出しました。誰も開けには行きません。暫くの間大声とガタピシが続きましたが、いつか突っかい棒が外れてガラガラと戸が開きました。先生は、突っかい棒を振りながら「コラ!やったのは誰だ!」と語気荒く怒りました。生徒はだんまりです。しばらく説教が続いたが「俺は、君らには負けんからな」といいながら、前の時間の板書がそのままの黒板を上に揚げて、授業を始めました。黒板に向かって板書しだした先生の横顔には、どことなく笑みがありました。学校を出たばかりのバリバリの先生でした。われわれの 年齢に最も近い関係もあって、生徒に特に親しまれていました。
往時は、一定の分をわきまえながらもこんな大らかさがまだ残っていたのです。豊かな自然の中での学園生活の温かさは、こんなところに所以があるのでしょう。
横手市では現在、横手市史の編さん事業が進んでいます。旧横手市中心に、周辺全域にわたる編さんです。監修は47期の笹山晴生先生です。平成10年度から編さんの調査活動が始まり、22年度までに全10巻・普及版1巻の計11巻を刊行しようという構想です。私もその編集に携わっています。その関係から、資料を求めてあちこちを巡っています。チャンプリンの逸話もそんな中からの拾い物でした。