
佐々木 律 成(71期)
母校で14年間奉職
1987(昭和62)年度から2000(平成12)年度にかけて、母校に勤務させていただき、僥倖だった。世界史を主担当とする社会科(現在は地理歴史科・公民科)教員であり、後輩でもある生徒の進路目標達成を後押しすることが主務だが、フェンシング部顧問としても驀進した14年間だった。
杉原千畝記念館
世界史の授業では時々「世界史の舞台に登場した日本人」との主題を設け、特に杉原千畝(1900~86年)に関しては熱く語っていたかもしれない。
2015年公開の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」は、多くの日本人が彼を知る契機となり、我が意を得た思いだった。
彼は第二次世界大戦期に、領事代理に就任していたリトアニアで、ユダヤ難民が安全な地に渡航できるよう独断で日本通過ヴィザを発給。約6千人の命を救った外交官として知られ、イスラエルでは最も尊敬されている日本人といわれる。
1998年(母校創立百周年)に、「杉原千畝の出身地である岐阜県八百津町に、2000年開館予定で記念館建設計画が進められているが、建設資金が不足であり、基金に協力してほしい」と寄付を募る新聞記事を読んだ。これを世界史の授業中に当時3年生(95期)の担任だったクラスに紹介し、私は個人的に寄付すると生徒に話した。すると、クラスの生徒たちが「私たちも一緒に建設基金に協力したい」と申し出てきたのである。
私費、家庭に呼びかけたうえで生徒有志から募金(保護者個人からの寄付もいただいた)、端数を学級費から出して、3万円には達したかと記憶している。
さて、2000年の全県高校総体でもフェンシング部は奮闘し、男女ともエペ個人戦で優勝し、岐阜県大垣市で開催の全国高校総体(インターハイ)に出場した。私は、試合のことばかり頭にあり、7月31日に大垣駅前の大会総合案内所に行くまで、杉原千畝記念館完成の年であることを失念していた。なんと前日の30日に記念館がオープンしたという。試合日までは余裕があった。ようやく大垣までたどり着いた愛車にさらに無理を言って、1時間半かけて山里の八百津町まで運転し、「杉原千畝記念館」を訪れた。
そこで、寄付者一覧の中に「秋田県立横手高等学校3年6組」のプレートを見つけたのである。些少な寄付だったのに、名前を掲示してもらっているので仰天し、感激した。偶然にも7月31日が杉原の命日だった。
フェンシング部が岐阜県開催のインターハイ出場を決めなければ、別に機会を設けて、わざわざ記念館に行くことはなかった。しかも記念館訪問日が杉原の命日とは、彼の魂に導かれたようなインターハイ出場であり、不思議な縁を感じた。
寄付に協力した生徒たちは既に卒業しており、全員に報告は難しいので、何人かの教え子には伝えた。旧友に伝えてくれたかもしれない。
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(提供:岐阜県加茂郡八百津町 杉原千畝記念館)
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フェンシングとの出会い
杉原千畝記念館に足を運べた縁は、フェンシングとの縁でもある。繰り返すが、大垣インターハイに生徒を引率しなければ、記念館に行けるチャンスはなかった。
大和谷弘先生(57期、故人)が1979(昭和54)年にフェンシング同好会として立ち上げ、2年後の81(同56)年に部に昇格し、40年以上の歴史がある。だが全国トップレベルの秋田のフェンシングというと旧合川(現秋田北鷹)、聖霊学園などが超名門であり、スポーツ全般に関心があるわけではない人には「横手高校にフェンシング部があるとは知らなかった」との認識が一般的である。それでも、東北大会個人優勝者5人(男子3人、女子2人)、インターハイ入賞者3人、国体(現国スポ)では県少年女子チームのアンカーを務め準優勝に導いた選手など、部員は胸を張れる足跡を残してくれている。
私自身は競技経験がない素人監督である。1年間だけ大和谷先生から教えを受けただけなので、あとの13年間は優秀な生徒から学びながら何とか監督を務め上げた。
大学でも競技を続けた教え子が教員に任用となり、指導者として秋田の競技力向上に大いに貢献している。現監督の髙橋茂樹教諭(89期)、私の後任を務めた鈴木亮教諭(91期 県教育庁高校教育課勤務)、名監督として秋田北鷹を率いる松井公章教諭(92期、1995年インターハイ個人フルーレ5位)の3人である。 部員が現役で難関大学にも合格している成果は、誇らしい。
旧帝大対抗戦のフェンシング競技団体決勝戦で東大対東北大というカードがあった。決勝戦では選手の出身高校が紹介されるが、両大学に教え子の選手がいて、「東京大学・西野大輔 秋田県立横手高等学校出身」(90期、秋田市で弁護士として活躍)、「東北大学・鈴木亮 秋田県立横手高等学校出身」とコールされた。会場地の札幌(北大)では、秋田の横手高校はフェンシングも強い名門の進学校との評判が立った。
全国的に公立進学校も名声を博してきた競技であり、東北では仙台一、仙台二、山形東、米沢興譲館といった、進学実績でも横手と同等以上と言える顔ぶれである。西日本では高松(香川)が印象強い。勉強と競技を両立するのは当然である、との刺激になっている。
全国大会では個人戦に比べ団体戦でなかなか勝てなかったが、昨年3月、北海道・東北地区代表として臨んだ全国選抜大会で、髙橋監督が率いる男子エペ団体戦で、16強入りした。
大会前の練習の盛り上がりを思い出して、一首詠んでみた。
「審判器ランプが点いて意気高し全国前の美入野ピスト」(ピストとはフェンシングの試合場)
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私の現況と嘆き
2026年(令和8年)現在、私は弘前大(福田眞作学長は71期同期生)の副理事として学生募集を担当し、公務で母校を訪問する機会がある。青葉会(神宮寺美入野会)幹事として、またフェンシング部の全国大会前の練習に顔を出し、いまだに現職の母校教員のように図々しく出入りしていることをご容赦願いたい。
それにしても、世界史の授業で杉原千畝の「人道」を生徒に語った私には、現在の国際情勢は心痛の極みである。
杉原千畝が生きていれば、今のイスラエルの動きをどう思うのだろうか。恩をあだで返しているようなものだ。彼に救われたユダヤ人の子孫がイスラエルで暮らし、ガザやイランなど他民族への非人道的な仕打ちに加担しているならば、「人道」を貫いた杉原は看過できないだろう。
私だけでなく記念館建設基金に協力した教え子たちも嘆いているに違いない、やり切れない思いを二首に託し、本稿の結びとしたい。
「千畝氏が救いし民の住める国他民族攻めいみじく哀し」
「命懸けヴィザで救いし千畝氏の恩忘れたかユダヤの民は」