美入野ノート

【第4回】福岡易之助(横手中学校第1期生)
フランス文学の出版社 白水社を創立

 福岡易之助(1885年<明治18年>~1931年<昭和6年2月8日>)は横手市雄物川町深井(旧 平鹿郡深井村)に生まれ、俳号は雄川、横手中学校(横手高校の前身)の1期生である。

 東京帝国大学仏文科に進学卒業後、父死亡のためやむなく帰郷し酒造業を継ぎ、農業振興に力を入れる。近郷の大沢リンゴの産地は易之助が切り開いたもの。1915年(大正4年)農業振興に見切りをつけ上京。

白水社を興してフランス文学の普及に努めた。2025年(令和7年)白水社は創業110周年を迎えた。

 白水社は日本で初めての仏和大辞典を編纂、これらの功績によりフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章した。

 姉の福岡珠子(田子静江)の夫であるいちみん(盛岡市出身)は、衆議院議長、農林大臣を務めた。

 田子一民は、石川理紀之助から教えを受けた最後の政治家で、秋田魁新報(大正4年9月15日~19日)に『篤農石川翁と九升田(一)~(四) 内務書記官 田子一民寄稿』がある。

年譜

1885年(明治18年)横手市雄物川町に、11代福岡利兵衛の長男として生まれる。家業は造り酒屋で、200町歩の田畑と広大な山林を持つ大素封家。
1910年(明治43年)浅舞小学校、横手中学校、旧制一高、東京帝国大学仏文科を卒業。
在学中に父が死亡。卒業後やむなく帰郷し、家業に従事する。果樹園(大沢リンゴ、和梨)、和と洋10数種の養鶏を実践指導する。農村開発と青年教化を説き自らの理想を語り県下の町村を巡回。
1914年(大正3年)郡会議員に当選。政治に絶望、農村開発運動に見切りをつける。3月28日、土地8,821㎡(2,673坪、福田運動場)を寄付する。
1915年(大正4年)百万円を超える財産で東京に移住し、大正4年11月3日、白水社創立。
フランス文化を普及。社名は、くつげんの長詩「離騒」の註の「淮南子えなんじに言ふ、白水はこんろんの山に出で、これを飲めば死せずと。神泉なり」に由来する。
1921年(大正10年)6年の歳月と莫大な資金、友人の助力で『模範仏和大辞典』を刊行。フランス政府がレジオン・ドヌール勲章を贈り、賞賛する。
(この勲章はナポレオン・ボナパルトによって1802年の5月19日に創設されたもの。民間人の「卓越した功績」を表彰することを目的。)
1923年(大正12年)関東大震災で白水社が全財産を無くし、故郷の財産30万円を活用。
1924年(大正13年)神田錦町に新社屋を建て再出発。
1925年(大正14年)雑誌『ラ・スムーズ』(後の『ふらんす』)創刊。
1931年(昭和6年)2月8日、神奈川県鎌倉市で没。享年47。夫人福岡せいが社長となる。
墓碑は生誕地近隣の曹洞宗深徳寺。戒名は梅溪院殿蘭學易秀居士である。

横手市立雄物川図書館 常設展 白水社の本

福岡易之助は31歳の時に社会文化の発展に貢献することを目的に白水社を創設。老舗出版社の白水社は海外文学や哲学書の翻訳において数多くのロングセラーを擁し、演劇と戯曲関係の出版も手がける。横手市立雄物川図書館は白水社刊行資料を収集し、「白水社の本」として常設展示。 文庫クセジュ、エクス・リブリス、白水Uブックス、ニューエクスプレスなど定評のあるシリーズ、フランス語とフランス文化紹介の専門誌である月刊誌『ふらんす』も展示している。

常設展 白水社の本
企画展 石川理紀之助を知る (2017年6月)

横手市雄物川町 造立神社境内 協力立志社記念碑 撰文=福岡易之助 和歌=石川理紀之助

 1880年(明治13年)に平鹿郡里見村初代村長の山内栄司氏が自由民権運動結社の協力立志社を創設したことを示すため、1914年(大正3年)10月に氏の功績を称えて、協力立志社社長の山内孫七郎(山内栄司氏の長男)らが建立した石碑である。篆額(題字)の協力立志社記念碑は西さいおんきんもち(元 内閣総理大臣)の筆。撰文は雄物川町出身で果樹栽培などを通して農村開発に力を注ぎ白水社を創立して『模範仏和大辞典辞典』を出版した福岡易之助。和歌は明治期の篤農家である石川理紀之助の【貧しきを 救いし君が こころざし たてし形見の このいさおふみ(花押)】。石川理紀之助の花押を刻す石碑は、筆者の管見の限り、この石碑のみである。

文:小林忠通(福岡易之助研究家)2025.11.01

深徳寺 横手市雄物川町深井字大深ケ39
福岡易之助の墓碑
戒名は梅溪院殿蘭學易秀居士
昭和六年二月八日 俗名易之助行年四十八歳
横手市雄物川町柏木福田 福田運動場
福岡易之助氏寄付 大正三年三月二十八日

雄物川町教育委員長の佐々木良助の発案で、明治改元百年を記念して福田運動場に仙台石の記念塔を建設。昭和43年10月20日に易之助夫人列席の除幕式を行った。碑陽の【福田運動場】は、夫人福岡せいの揮毫である。

福田運動場の面積=5,309㎡(地番69-1)、3,512㎡(地番78-1)
合計=8,821㎡(2,673坪)

近接する小学校に寄付した自分の土地の面積は、『あきた(通巻103号)1970年12月1日発行』の「福岡易之助 鈴木安太郎著」は1,600坪であるが、2017年の実測で2,673坪である。