美入野ノート

【第1回】愛機とともに―山下惣市氏

「デジタルの便利さにかなわないが、今はまだ昔のフィルムの方が好きだな」

「終戦の年が小学校5年生で、親父や叔父もやっていたから、中学に入ってからカメラを始めたんですよ。」と山下さんは語る。家にはすでに全紙が入る現像・停止・定着の3つのバットもあり、ただ撮るだけではない玄人はだしな世界がそこにはあった。
「高校では同好会もまだなくて、たしか深沢賢一郎先生が学校のカメラを管理していましたね。当時、カメラを持っていたのは同じ学年の十文字町の藤井暁夫君と二人だけ、だから修学旅行の時も写真撮りました。」
「悠長な時代だったから、お城山で撮影会があるので行っていいですか?なんて先生に聞くと(えよえよ)それが、公認欠席となって卒業時精勤賞でした。(笑)」

著名な写真家である土門拳や木村伊兵衛の案内役を勤めたことも懐かしい。
「木村伊兵衛が、羽後町で西馬音内盆踊りの写真を撮る為三年間通い詰めたんです。篝火に映えるうなじを撮るためにね。プロの執着を見ました。」

「昔の8ミリは今のムービーと違って、映像と録音が同時に撮れないので、マッチング編集に時間がかかるんですよ。酒を飲まない人は早く作品を完成させるけど、ボクは晩酌をするからなかなか出来上がらない(笑)。8ミリの先輩はステーションホテルの平田さん。」
そんな長いカメラ歴の中、昭和48年から49年にかけての所謂「四八豪雪」の際、年の瀬に中央町から大町へ戻るすこしの間に傘に積もった大雪、そのあまりの多さと重みに恐怖感を覚えたのを機に記録に留める事を考え、カメラ・8ミリを片手に文字通り電線や電話線を跨ぎながら旧市内を撮影して回った。その記録が先頃DVD化され「横手沈没」と題され、写真とともに秋田ふるさと村で展示されたことは記憶に新しい。

豪雪の凄さを物語る写真

 

当時、実際に使用した愛機
(ニコン8X)

「昔、登山同好会があって、羽後公論初代編集長以下十数名で「白馬の大雪渓」を目指したときが一番難儀でしたね。スティールもムービーも両方やるから、レンズも標準・広角・望遠と3種類、それに三脚や感光材料、8ミリなんか撮影するとすぐ終わるからフィルムだけでも膨大な量なんですよ。当時は米がないと民宿には泊まれなかったから、米と水。あまりに荷物が重いのでどっちを捨てようか真剣に悩んだ(笑)。」
大変なもんでした。と懐かしみながらも、満ち足りた表情からはまだまだ現役の自負が漲っていました。

「横手沈没」のDVD問合せは、Tel.0182ー32ー0700 木村屋 山下まで