高橋 務(67期)
校歌はいつ制定されたか 校歌は創立25周年記念事業の一環として大正14年4月に制定されたと考えられている。25周年の記念式典等は本来大正12年秋の予定であったが、関東大震災の影響で翌13年に延期され、5月16日に記念祝典が行われた。したがって創立25周年記念号として刊行された校誌29号(大正13年10月)には、会計報告等も掲載され、事業は終結している。しかもこの号には校歌に関する記事は一切見当たらない。その後校歌については昭和8年刊行の『沿革略誌』にこの記念事業の一部で大正14年4月にこの年に完成したとある。これが校歌の唯一の記述となっている。
昭和2年1月発行の校誌『みいり野』第30号のトビラに校歌の歌詞が掲載されているから、周年行事の時期に作詞依頼が行われた可能性は確かにある。学校に作詞者・作曲者との関係を示す往復文書や制定関係の資料は一切伝来してない。また校歌に関して言及した職員は誰一人いない。筆者は在職時に沿革資料の調査を担当したが、大正期は極端に出版物や記録が少なく校内には史料が伝来していないのが実情である。
当時、校歌は学校創立と同時に必ず作られる類のものではなかった。明治26年の「祝日大祭日儀式唱歌」制定以降、儀式で歌う曲は定められており、当初儀式で校歌を歌う余地はなかった。儀式唱歌に準ずる扱いを「校歌」がうけるのは後年のことであり、小学校の各校が願い出るようになってからである。大正末期から昭和初期にかけて、県内旧制中学校にも制定が広がった。横手中学校の校歌は、こうした学校文化の変化の中で準備された。儀式に校歌が歌うのが一般的になるのは昭和に入ってからである。
作詞者・作曲者について 作詞は土井晩翠、作曲は小松耕輔である。晩翠は仙台出身の第二高等学校教授であった英文学者で、「荒城の月」の作詞者としても知られる詩人である。県内では大館中学・秋田中学校の校歌も作詞している。小松耕輔は旧東由利町舘合出身で、日本の唱歌・合唱界の草創期を支えた音楽家・作曲家である。日本初のオペラ「羽衣」の作曲者としても著名である。横手城南はじめ県内高校の校歌も多数手がけている。晩翠の資料によれば、当時の旧制中学校校長からの作詞依頼が多い。横手中学は大館中学・秋田中学に続いて依頼したと考えられる。小松耕輔についても、由利郡出身で横手地域との結びつきが強く、当時の第一線の音楽家であったことから選ばれたと推測される。作詞と作曲が同時に完成したかは疑問である。校誌第30号に歌詞が掲載されたのは昭和2年1月、曲が明らかになったと推測されるのは昭和3年3月の第31号で、時期がずれている。なお学校に保存されている第31号の校歌は当該頁が切り取られ、肝心の部分の楽譜は確認できない。作詞が先行し、後に作曲されたかも知れない。
昭和4年2月の校誌第32号には生徒による「校歌について」の論説がある。「校歌の出来た時一回丈楽器を使用して、練習させて下さったように思われる」と記している。音楽教育が大正2年に廃止されていた横手中学では、この生徒は校歌を銘々の記憶で歌い楽譜に不正確に歌う現状を嘆いている。しかし、昭和3年の30周年記念式典では校歌合唱があるから、状態はかなり是正される方向にあったことがわかる。
なお、校歌制定以前には「横中歌」と呼ばれる愛唱歌が存在し、創立25周年記念行事の在校生・同窓会員による市内行列では、この「横中歌」を高唱して気勢をあげたことを伝えている。
校歌の意味を考える 校歌は四連構成で、自然・歴史・学校生活・卒業後の生き方を順に示す。
第一連:自然環境が詠まれている。鳥海山と御嶽山に囲まれた(大正13年10月)美入野の地を背景に、「微塵を集めて虚空を凌ぐ」という表現で、山の高さが小さな積み重ねの結果であることを示し、日々の努力の重要性を自然から学ぶべきだと説く。
第二連:歴史的環境を詠んでいる。金沢・横手間の道筋には後三年合戦の故事や史跡が分布している。著名な歴史的環境に囲まれた地域の学校であると認識し、歴史への感慨と郷土への理解を深める意義を歌っている。荒廃した戦場地を田畑豊かな地に切り開いてきた先人への敬意も込められているとも読める。
第三連:学校生活の望ましい在り方を示している。「青春いさみのわがよの門出」とは、旧制中学入学の喜びと新生活への意気込みを表す。一般には「剛健」に「質実」であるが、晩翠は大館中学でも用いた「質朴」の語を用い、言葉の饒舌さより黙々と訥弁で力ある人材となるため、将来を見据えて堅実に努力していく生き方の姿勢を示唆したと解せられる。
第四連:卒業後の生き方を詠んでいる。「春秋二千」は当時の歴史観に基づき大和民族の国家が成立してから2000年と考えられていた。その栄光をさらに高める人材となることを求めている。「剛毅」は第三代校長加賀谷定治が説いた「強くして屈せざる」精神であり、困難を乗り越える不屈の精神を忘れず困難を乗り越える姿勢を求めている。晩翠は「健児」という語を用い、東北人の朴訥さと胆力を重んじる考えを示している。
大正12年11月、「国民精神作興に関する詔書」が出され、関東大震災後の社会の混乱、「浮華放縦」と称された世相に対し、「質実剛健」を備えた健全な生き方を求めた。詔書の考えを反映した内容となっている。様々な制約の中でまとめられた教育指針となっている。
今後の課題 旧制横手中学校の校歌制定の年といわれる大正14年を考えた場合、5月8日に配属将校の配置、10月18日に皇太子(のちの昭和天皇)の行啓があり、その前に校歌が完成していたわけである。しかし、『沿革略誌』だけを根拠に校歌の制定を主張するのは甚だ心もとない状態である。校歌が学校に定着して不動の地位を獲得するまでには少し時間がかかったと思われるが、その後昭和恐慌・太平洋戦争等の未曾有の激動の時代に突入する。その困難を乗り越えるときに校歌の果たした役割は大きかったにちがいない。
今後地域史料の発掘が行われる中で、この校歌に関わる新事実が出て来る可能性はある。同窓生の方々の協力を得てきちんとした史実をもとに位置付けていきたいと考える。記録に残らなかった理由を追い求める研究がまず必要である。大正末期から昭和初期の地域史・教育史を調査・研究する中で行いたいと考えている。